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chimotyのメモ書きブログ

90年生まれのゆとり世代が人生の軌跡を綴ったブログ

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キャリアの棚卸し② エンジニア転職は地獄の始まりだった。

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前回は僕が新卒で就職した人材派遣会社で過ごした日々や退職に至るまでを書きました。

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1.エンジニアへ転職するきっかけとは

今回は営業職を辞めてエンジニア転職してからのキャリアを書いていく。

派遣会社を退職したのが2015年の1月。新卒で就職して1年足らずで退職したことになる。実は退職の少し前から同業の人材紹介会社(転職エージェント)に登録して転職活動はしていた。

「営業はしたくない」
当時はただこの気持ちが強かった。

では、営業が嫌なら、どんな仕事がしてみたいのか。
自分が派遣会社の営業として、様々な企業にアプローチしていた関係で「ITエンジニア」や「プログラマー」の需要の高さは知っていた。

それに当時はちょっとしたプログラミングブームが起きていた。テレビでもネットでもIT人材の不足が取り上げられている。

どうやら文系のIT未経験でも中途採用枠がそれなりにあることに気づいた。

僕自身が結構単純な人間で、テレビやニュースで報道されていることを鵜呑みにしてしまう性格だ。

その頃は
「プログラミングできたらカッコイイよなぁ。」とか
ハッカソンて何か凄そう!」とか
「転職に困らないて最高じゃん!」
みたいな華やかなイメージを抱いていた。

もちろんIT業界が3K(きつい、帰れない、厳しい)というのはよく耳にするし、派遣会社にいた頃から残業も多いことは心得ていたつもりだ。

それでも何のスキルも持ち合わせていない若造にとって、未経験でも始められるプログラマーという仕事は将来の不安をかき消す唯一の手段だと感じた。

2.初転職は慎重になりすぎた

なので、転職エージェントには「エンジニア転職」希望で打診していただいた。実際に登録して面談を行ってから、1週間以内に次々と紹介されたのには驚いた。

さすが大手の転職エージェントだけあるね。名だたる大手企業やそのグループ会社、2次請けのパートナー企業など様々だ。紹介を受けた会社はとにかく片っ端から応募していき、書類選考を通過した企業の面接は全て受けた。

転職活動してから2週間程度で1社から内定をもらった。それは某大手ネット企業の1番のお得意先のパートナー企業だ。Javaでの開発がメインの仕事で、1ヶ月のガッツリ研修がある会社だった。

確かに未経験でも入れてくれるのだから条件的には悪くはない。すぐに承諾しても良さそうだが、そうはしなかった。

理由は「内定を承諾するか否か3日以内に決めてくれ」と言われたことが少し引っ掛かったから。

会社は良さそうだが、どうにも決定打となる情報がなかった。それに転職活動して2週間程度だったので、もう少し色々見てみたいという我がままが出てしまった。あと、転職した場合は東京に引っ越さないとダメなので、すぐに決めることができなかった。

なので、エージェントの担当者には内定を断った。すると、彼から思いがけない言葉が来た。

担当者「え?これ以上、紹介先はありませんよ。こんな良い条件の会社を断るて何か秘策でもあるんですか?」
僕「いえ、申し訳ないですが、もっと他の会社も見たいので。」
担当者「いや、もうないですよ。それはつまり1年以上継続して転職活動するてことで良いですか?」
僕「そんなつもりはないですけど。。」

こう言われて、なぜか「もういい!」と感情的になってしまった。
結局、エージェントの紹介はそこで終了し、自分で転職活動することになった。

当時は第2新卒という扱いで、大学4年生と同じように会社を受けることもできた。
とは言ってもなかなか厳しい。

いくつかの小さな会社から内定をもらえたが、ネットでの評判はどこも著しく悪かった。給料が低い、残業が多い、炎上案件に行かされるなど希望が持てなかった。どうしても決め手がなかったのだ。

そんな中で受けたのが愛知県のWeb制作会社だ。派遣会社の転勤で愛知県に住んでいたこともあり、東京ほど距離感も感じずに何となく受けた。

零細企業という規模で華やかさはなかったが、社長と総務以外は20代がメインの会社だ。リーダーが31歳で、他に新卒2年目で活躍している人もいて、1年でここまで成長できるのか、と感心した。未経験でもOKということで面接を受け、内定した。

内定した3社で迷ったが、最終的にこの愛知県の会社に決めた。
晴れてプログラマーとしてデビューだ。新しい自分になるべく、情熱と期待をもっていたが、2ヶ月でこの選択も間違いだっと気づく。

3.Webエンジニアは地獄への入り口

2015年4月、Web制作会社に入社。
入社当日からプログラミングの実践だった。

まずはJavaというプログラミング言語でメールフォームを作成するところから始まった。しかもOSはLinux、WebサーバでApache、データベースはPostgreSQLなど、一気にいろいろなツールを触ることになり、チンプンカンプンだった。

完全にマンツーマンで教えてもらえるわけではなかったが、調べて質問してを繰り返した。しかも教えてくれていた人は、残り数週間で退職すると言うのだ。

結局、出された課題全てを終えることはできず、何となくわかったかな?程度の理解だった。1ヶ月程度で練習は終わり、そこからは実際の稼働システムの保守・メンテナンス作業が始まった。

でも全くどう修正すればいいのかわからなかった。「ここをこう修正してほしい」とリーダーから言われるが、全く何も進められなかった。自宅でもプログラミングを練習してみたが、さっぱりだ。

2ヶ月目には他のシステムの保守も必要ということで、PHPMySQLもマスターしてほしいと言われた。LinuxJavaPHP、、、何一つわからないまま時間だけが過ぎていった。

しかも、教育機関向けにWeb教材の作成代行もしている会社だったため、その作業が僕にも来たのだ。専用のツールを使って作成するので難しくはないが、とにかく量が多いのだ。

この時点でマルチタスクになり、完全にお手上げ状態だった。

3ヶ月も経過すると、今度は社内唯一のデザイナーさんが辞めて、さらにはフロントエンドのエンジニアの先輩が辞めた。この時点でリーダーさん、僕、HTML/CSSのコーダー2人、営業2人、Webサイト保守のパート・アルバイトの方だけになっていた。

もはや自転車操業に近い状態だった。社長が仕事を獲得してくるが、それを捌く人がいないのだ。

上司(リーダー)は唯一、何でも屋のエンジニアだが、それでも1人で抱える案件には限界があった。

僕も技術力が追いつかず、毎日残業することになった。上司には教えてもらえるほどの余裕が全くなかったのだ。真夜中まで調査やメンテが続くこともあった。

Web教材の納期が迫ってきたため、そちらにシフトすることになったのだが、分量の多さに嫌気がさしてきた。

そんな感じでエンジニアとして何もできないまま1年が経過してしまった。

4.何もできない屋と教えられない教育係

新年度を迎えて4月になった。新卒2名(エンジニア1名)が入社した。もちろんエンジニアの方の教育係は僕だ。プログラミングもろくにできない僕が教える側とは、なんとも皮肉な状態だ。

Linuxの操作くらいは覚えたが、PHPMySQLフレームワークの書き方など中途半端な知識で教えることになる。僕も一緒にやりながら教えていった。

もちろん、上司がフォローしてくれるが、それでも全く足りなかった。後輩には「とにかくググったり、書籍で頑張って!」としか言えなかった。

我ながらホントに最低だと思う。(新卒くん、ゴメンね)
上司の立場からすると、僕と新人の何もできない2人の面倒を見ないといけないのだから、それは地獄だっただろうな。

僕はというと、Webサイト制作もできない、プログラミングもできない。。
一体何をしてたんだろうかと思うくらい、空っぽだった。

前職と同じように仕事してるフリを覚えてしまった。
結局、人て根本的に変わらないのだな。

入社して1年ちょっと経過したが、社内には活気もなく、目の前の作業をこなすだけのどんよりした空気が漂っていた。この頃の僕には転職活動した頃の目標とか憧れというものは完全に消えてしまっていた。

会社を辞めたい。
また新卒1年目と同じように逃げ出したい気分で一杯だった。

5.会社を去るべき時が来た

Web教材の制作やらバグの修正対応やら、新規システム開発のドキュメント作成やらでもはや手一杯の状態で、朝から翌日の朝方まで作業することもあった。

こんな日々が続き「もう無理。」と限界を感じた。
そして、上司に辞めたいと伝えた。あとは社長に伝えるだけだ。
なかなか言い出せなかったが、面談があるというので、そこで打ち明けることになった。

もちろん社長からはコテンパンに怒られた。
会社に何も貢献していないじゃないか、1社目と同じようにまた逃げるのか、など。

でもそこの会社で続けることの未来が描けなかった。
ぼくは努力が苦手なようだ。どうにか食らいついていく気が起きないのだ。

プログラマーてカッコイイ!」と思ってた自分が恥ずかしい。
結局、何もできず、それを克服する努力を怠っただけなんだけどね。

「隣の芝生は青い」じゃないけど、Webエンジニアやプログラマーについてはそんなイメージだったのかもしれない。

「いつでも・どこでも・自由に稼げる」という甘い言葉に飛びついて、勢いで転職したが、実際には甘くなかった。肝心のエンジニアとして「何を実現したいのか」が抜け落ちていた。

やはり、イケイケなイメージの裏には猛烈作業と勉強が必要だった。Webエンジニアと言えば聞こえは良い。しかし、実際には常にバグや障害と格闘し、新しい言語や技術を身につけて、開発に活かしていくという険しい道のりだ。

サーバやネットワーク、デザインなどの知識や技術も必要なため、一つ一つ身につけていけば、文字通りITの何でも屋にはなれる。

当然だけど、基礎となる力が身につけば、新しい技術にもすぐに対応できる。しかし、流行り廃りが早いWeb業界では、開発そのものや新しい技術が好きじゃないと厳しいと思う。

僕はついていけなかった。
働く者として最低なマインドだな。

つらつらと書いてきたが、こんな感じで2社目もあっけなく1年半ほどで退社してしまった。
それからはサーバのインフラエンジニアとしてキャリアを積むのだが、また次回書いていく。

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