Chimo no Logue

chimotyのメモ書きブログ

90年生まれのゆとり世代が人生の軌跡を綴ったブログ

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自分のキャリアを棚卸した結果①

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前回は大学時代の棚卸しを書いたが、今回は就職してからのキャリアを見ていく。

僕が新卒で就職したのは2014年だ。就職先は技術者派遣の会社であり、仕事は営業職だ。

そもそも何故この会社に就職したのか。僕の場合、1年以上も就活していた。自分が何に興味あるのか、何がしたいのかわからず、軸もブレブレ、そんな曖昧な状態で就活をしていた。

そんな感じで就活していたため、面接も上手くはずがない。とうとう卒業まで3ヶ月という時期まで来ていた。

その時にまだ募集していたのが、この派遣会社だった。何となく受けてトントン拍子に面接をパスし、2次面接にて内定を頂けた。

実はあまり興味はなかったけど、早く就活を終わらせたい気持ちと、そこまで悪い条件ではなかったことで内定を承諾した。

営業は不向きだし嫌だと感じていたが、どの道、何のスキルも経験もない僕は営業くらいしか仕事がないと諦めていた。だから、覚悟を決めて営業職で働くと決めた。

そして、4月になり社会人生活が始まった。地元を離れ、慣れない土地で一人暮らしをしながら、仕事の日々を送ることになる。

僕の仕事は新規顧客の獲得だ。当時、北関東エリアの会社にアプローチし、派遣の提案や人材紹介をするのが仕事だった。

でも、すぐに仕事が嫌になる。アポ取りのために電話をしなければならない。でも、すぐ断られるし、上司から厳しいチェックもあり、精神的にきつかった。電話をかける会社もどんどん減っていく。

ここまで来ると、完全に仕事してるフリをするのに必死な毎日で、サボることばかり考えてた。

入社して2ヶ月もすると、他の営業所にいる同期は次々と契約を獲得していった。自分だけが取り残され、毎週送られてくる営業成績表は全国で僕だけ契約数が華やかな「0」の連続だ。

そんな日々を半年過ごすと、次は東海エリア(名古屋)に異動を言い渡された。全国の営業所の中でも1、2を争うくらい競争が激しい営業所だ。なぜ僕がそこに異動になるのかわからなかったが、新規の見込み客が多い名古屋で結果を出してほしかったのだと思う。

当時の営業所には、同期の営業が1人いた。ただ、この子がすごく優秀で、すでに僕とは天と地ほどの差が出ていた。

微かな期待を持って異動したが、完全に甘かった。そこの上司たちはゴリゴリの営業マンという感じで、毎日怒られ、監視も厳しく、僕の心はズタズタだった。飲み会でも仕事の姿勢や飲み会でのマナーについて度々注意され、説教されることばかりで、辞めたい気持ちが強まっていった。

上司の顔色を窺って仕事のフリを続ける。本当に最低な社員だったと思う。そんな感じで過ごしていたため、初歩的なミスが多く、所長や上司、顧客から怒られることが続いた。

全社的な飲み会の幹事をさせられるなど、本当に胃が痛い日々を過ごす。

そんなある日、僕を見かねた当時の責任者と所長が僕を呼び出し、こう告げた。「もう君はここでは面倒見きれない。グループ会社に出向してくれ」と。

いろいろな方に相談し、悩みに悩んだが、承諾した。出向を打診された時点で心底、自分の答えは決まっていたと思う。

でも、ここで会社を辞めて転職できるのか。どこも雇ってもらえないのではないか。そんな臆病さと不安な気持ちから、踏ん切りがつかない。

だから、渋々グループ会社への出向を引き受けたわけだ。でも、それが間違いだとようやく気づいた。

グループ会社での仕事は、派遣社員の管理だ。取引先の会社の工場が三重の山奥にあり、そこに引っ越せと言われたのだ。

ようやく辞めるという決心がついた。先のことを考えるよりも、今どうしたいか、という気持ちを優先させた。

「とにかく辞めたい」

これが僕の答えだった。もちろん不安はあるし、実家に帰ることになる。しばらくは無職で惨めな思いをすることになるけど、どうするかはじっくり考えよう。

もちろん、お世話になった方々はたくさんいたし、僕のことを気にかけてくれる人も多かった。後々聞いたが、いくら何でも会社の対応は、新卒に対してはお粗末な扱いだと感じる人も多かったようだ。

お世話になった1人1人に電話越しで挨拶をし、会社を辞めた。入社して1年も経たず、に。

この時に学んだのは、直感的に嫌だと感じたことはその後いくら考えても、その嫌な気持ちは拭いきれないということ。

後先考えるのは大事だけど、無理して嫌なことを続けるのは厳しい。そして、周りの人間と上手くやっていけなければ、キツいということ。

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